法の文脈における「人権侵害」について

訂正1

法曹実務家レベルから違った認識と議論の枠組みが出されたので、このエントリーの信頼度は割り引いて下さい(真ん中の段落は全て取消します)。ラディカル・フェミニズムが言うような「差別」概念までいかなくても、裁判で主張できるレベルの「差別=人権侵害」概念はもっと広い感じなのかもしれません。以下のブコメ欄で適切な枠組みが示されていますので、そちらを参照して下さい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/seijigakuto/20090530/1243715951
isikeriasobi 議論の枠組みがおかしなことになっています。差別は人権侵害です。この件はこれが差別といえるかどうかの問題(たぶんここで議論はとまる)、そういえたとして私人間の人権衝突の調整の問題です。 2009/05/31

NaokiTakahashi それは、今度は「差別」の定義論になるんじゃないですかね。ラディカル・フェミニズムが言うような「差別」概念とは別に、法的な「差別」概念があるのかな? 2009/05/31

barcarola =isikeriasobi / id:NaokiTakahashi そうです。法律上は特定個人にむけられていない行為について、それが世間的な差別感情「に基づく」/「を助長する面がある」としても「差別そのもの」として考える枠組みは未整備です。

訂正2

人権侵害の所に「法的な」という補足を入れました。平等原則から導き出される「差別を受けない権利」はかなり消極的な権利であり、「平等権は、それだけでは何も保障していない。空白の権利である」と言われています(「平等原則説」という通説)。それ以外には、平等権を肯定する少数説や、憲法は条文を見るだけでは分からなくて、政治過程あるいは裁判過程を通して、初めてその具体的内容が分かる。そのため、平等原則は具体的な裁判規範であり、それに対する裁判所の判決を通じて初めて明らかになるという学説もあります。
私の場合、「裁判規範性が認められるレベルの差別=法的な人権侵害」という事で理解していましたが、これは間違っている可能性もあるので、次のエントリーなどで考察していきます。

言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090529/1243539743
私のはてなハイクでの簡単な返信
http://h.hatena.ne.jp/seijigakuto/9236532703455524803
差別が人権侵害でない? - 地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090531/1243698897

id:tikani_nemuru_Mさんからトラックバックをいただいたので、応答します。

法の文脈における、差別と人権の関係を教えてください

ここらへんは法律学を学んだ人以外には知られていないのですが、少なくとも日本の場合は「差別=人権侵害」ではなく、「憲法上保護されるべき利益の侵害=(憲法上の)人権侵害」として、救済や規制の対象となります。

議論の構造に関していえば、英語では通常、rightsの反対語はwrongs(=権利侵害、不法行為など)です。human rights(人権)の反対語は human wrongsで、これが日本語で言う所の「人権侵害」になります。「差別」というのは、あくまで「人権侵害」を構成する一要素であり、それに過ぎないとも言えます。そのため、「差別性が認められる事」を「(法的な)人権侵害」に格上げするには、政治過程もしくは司法の場での認定・定義づけ等が必要になります。
そして、「(法的な)人権侵害」に格上げされた場合は法的な救済措置や規制などが取られる可能性が高いというのが、おおまかな構図です(これは学部及びロースクール卒のレベルまでの認識なので、実務家レベルになると違った認識になるかもしれません)。

政治運動をやってる人やその代理人の弁護士が「人権侵害」と主張しているのは、「(法的な)人権侵害と認定しろ」という事であり、それはポジショントークとしては当然でもある訳ですが、対立する利益を有する側までがその枠組みを受け入れてしまったら、そこで議論は終了に近く、すぐに法規制に向けた動きが本格化します。

tikani_nemuru_Mさんの「差別ではなく人権侵害と認定する事から始めよう」という議論は、NaokiTakahashiさんには「特殊な法学の枠組みを受け入れて、スタンダートな憲法学の議論による抵抗は諦めて失業しろ」とほぼ同義であり、これはゲーム製作者であるNaokiTakahashiさんには到底受け入れられない結論だと思います。この事のもたらす破壊力に関しての懸念は、tikani_nemuru_Mさんの前のエントリーへのコメントで何人かの方が述べていますが、私見では、半分以上は筋が良く法的にも妥当性のあるコメントだと思います。

差別は人権侵害である、という認識に関しては、他の資料もあたっているにゃ。人種差別撤廃条約の前文や第1条とか、「差別は人権侵害」と明言している弁護士(日本労働弁護団幹事長)の意見書、雇用均等政策に関する審議にあたっての意見とか、まあほかにもいろいろ。

弁護士の意見書はポジショントークです。「当該差別=(法的な)人権侵害」と認定されれば(多分)裁判で勝てるので、そう主張するのは当然の事ですし、そういう「高めの玉」を投げておいて、最終的な着地点を依頼人や自分が利益を代弁する側に少しでも有利な地点にもっていくのは、普通の戦術だと思います。
ここから、何故「この行為や制度が差別であり解消されなければならないのか?」「この差別的行為は(憲法上の)人権侵害と認定してしまえるレベルではないのか?」といった事を争っていくのが裁判であり、対立する利益を有する側の代理人の弁護士は「当該差別は(法的な)人権侵害ではない」という趣旨の反論を出しているはずです。

世界人権宣言や女子差別撤廃条約に関しても、同じ力学が働いていると思います。とりあえず、政治スローガンとして目いっぱい「高めの玉」を掲げておいて、何十年かかろうとも、漸進的にでも、それが実施されるようにもっていくという感じだと思います。
「差別ではなく人権侵害と認定する事から始めよう」という枠組みは、そういう特殊事情で定義された政治スローガン的な枠組みを受け入れて「人権」概念の拡大化を図る事になり、特定のカテゴリの人達の「人権」だけを肥大化させるなどの副作用や弊害も大きいので、私はスタンダートな憲法学の議論や枠組みを前提にして、一定程度特殊な法学の議論も取り入れて、全体のバランスで考慮していくのが妥当だと思います。

国連女性差別撤廃委員会が、例えば日本における特定の慣行を「女性への権利侵害」と認定した場合でも、それは日本政府にとっては法規制が義務づけられているわけではにゃーよね。
つまりこれは、法的な文脈においてすら、「法規制されない人権侵害」がありえるということになるんでにゃーの?

人権侵害にも、色々なレベルがある事は確かです。国連女性差別撤廃委員会が認定しているのは、「誰が見てもこれはひどい」といったレベルのものですが、そうではない「人権侵害」のレベルの細かい違いを区別するのは、法学部卒のレベルだと難しいですし、世間一般の人々は法学部は卒業していない人が大半です。
だからこそ、「人権侵害」と認める範囲を大幅に拡大していく枠組みには、警戒心も大きいのだと思いますし、昨年の国籍法改正問題の時の国会議員の発言や児童ポルノ法に関心を持っている(法曹出身以外の)国会議員の発言レベルのひどさを見れば、立法においてもそういう区別ができるとは思えませんので、軽度であろうとも「人権侵害」という枠組みが出来る事自体が即座に法規制に繋がると思います。

なお、日本の人権状況ですが、OECD加盟国の中だけで見ると最下位レベルにあるという事は確かですが、世界中の国を比較対象にした場合は上位に位置します。