教育の政治的中立について

http://b.hatena.ne.jp/entry/www7.atwiki.jp/epolitics/pages/296.html
id:seijigakutoさん産経は輿石氏が「教育の政治的中立ありえぬ」と述べたと書
いていますが、http://bit.ly/2PsujAでは、「教育は政治的に中立でなければな
らないのは、私の信念だ」と言ってます。どっちが正しい?
http://b.hatena.ne.jp/sadamasato/20090919#bookmark-15266010

前の返信はまだ書いている途中で申し訳ありませんが、IDコールでの質問なのですぐに書けるこちらだけ先に。
時系列を追うと、産経新聞の報道は2009年の1月14日で、選挙で民主党が政権を獲る前です。

民主・輿石氏、日教組にエール? 「教育の政治的中立ありえぬ」  - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090114/stt0901142151011-n1.htm
 民主党輿石東参院議員会長は14日、おひざ元の日本教職員組合日教組)が都内で開いた新春の会合であいさつし、「教育の政治的中立はありえない」と述べ、「反日偏向教育」の根源ともいわれる日教組へのエールと受け取れる発言をした。教育や教員の政治的中立は教育基本法や教育公務員特例法で定められており、日教組に肩入れする同党の“危うさ”がまたぞろ浮き彫りになった。
 輿石氏は日教組傘下の山梨県教組(山教組)の元委員長。現在は日教組政治団体日本民主教育政治連盟日政連)の会長でもあり、会合では「私も日教組とともに戦っていく。永遠に日教組の組合員であるという自負を持っている」と宣言し、政権交代に向け協力を求める場面もあった。

公明新聞の2009年の7月9日の記事にも、それ以降も類似の発言をしたという旨がのっています(報道から見て2009年7月6日の発言)。

民主党幹部が暴言 教育の政治的中立を否定
http://www.komei.or.jp/news/2009/0709/15024.html
 「政治を抜きに教育はない」。準憲法的な性格を持つ教育基本法で定められている「教育の政治的中立性」を真っ向から否定するような発言が、民主党幹部の口から飛び出した。
 6日に都内で開かれた日本教職員組合日教組)大会の席上、民主党輿石東参院議員会長(代表代行)が述べたものだ。
 輿石氏は今年(2009年)1月にも、日教組の会合で「(日教組は)政権交代にも手を貸す。教育の政治的中立といわれても、そんなものはあり得ない。政治から教育を変えていく。私も日教組とともに戦っていく」と公言していた。
 教育基本法や教育公務員特例法には、教育や教員の政治的中立性を定めている。それを教員出身でもある輿石氏が知らないはずはなく、一連の発言が“確信犯”であるのは間違いない。
 これに対し、民主党内からは疑問の声すら上がらないという。これでは「同党の文教政策の危うさを示した」(7日付「産経」)と断じられても仕方がないだろう。

で、ご報告のあった民主党政権が樹立して閣僚名簿が発表された後の2009年9月17日の記事です。

民主党参院議員会長 ・輿石東さん
http://mytown.asahi.com/yamanashi/news.php?k_id=20000530909170004
 ――自公政権下では政治と教育の中立の観点から、たびたび山教組批判が展開されました。政権交代で、政治と教育のあり方は変わりますか。

 「教育は政治的に中立でなければならないのは、私の信念だ。前回の私の参院選では、確かに先生方がカンパをした。だが、変なことには使っていない。金が集まるまで一時的に金庫に入れておいたのが問題になった。もし輿石が金を使ったというなら県民は怒り、今回の選挙で民主党は山梨で勝てなかったはずだ」

 ――ご自身は政治家として教育にどのようにかかわっていくつもりですか。

 「教育は未来への先行投資。私は『人づくりなくして国づくりなし』を持論としている。一方で『輿石文科相になったら悪夢』とか『民主党日教組に乗っ取られる』とか色々言われるが、私は逆立ちしても文科相にならない。鳩山さんからは『先生は参院単独過半数が取れるまで参院議員会長を続けてください』と言われている。大臣になるのは十数人に1人。それより参院がグラグラしてはいけない。私は会長を続ける」(聞き手・構成 福山亜希)

この場合、(1)産経・公明新聞がミスリードを招くような報道をした(2)輿石議員がこっそりと軌道修正した(3)産経・公明新聞と輿石議員の「教育の政治的中立性」という概念に関する認識が違う、のいずれかになると思います。

私は新聞記者ではなく、日教組大会にも参加していないので確実な事はいえませんが、政治家は支持者向けの集会では、集まった人達に受けのいい事を言うことが多い事(森総理の神道政治連盟での「日本は神の国」発言などのパターン)、2009年1月に報道されて結構な話題になってからも政権交代がされるまでは訂正の発言がされなかった事を見ると、選挙の際に「教育・日教組問題」として民主党攻撃の材料として大きく取り上げられたので、政権をとってからこっそりと軌道修正、もしくは独自の「教育の中立性」の解釈を提示したといった辺りの可能性が高いのではないかと思います(野党時代の民主党は、権力をもっていないので、この種の発言は問題視されませんでしたし)。ちなみに、一般の政治家も、中央やテレビでいっている事と、地方でいっている事に大きな開きがある事は日常茶飯事です。


なお、「教育の政治的中立」に関して詳しく説明しておくと、

教育基本法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html
(政治教育)
第十四条  良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2  法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

上記のようになっていて、リベラル寄りの教育学者はこれを重視します(教育学者は、ほとんどが左派ですが)。政治教育に関してですが、 大雑把に見て「政治的教養」の教育と、「政治教育(党派教育)」の2種類が存在します (後者の方は、「教育」では無く、「教化(政治的教化)」と呼んで区別される事も多いです)。

公教育は基本的に、現在の国家体制(とその下にある現社会)を将来にわたって維持する為に必要な知識や価値を次代を担う子供達に伝えていくという機能が期待されます。将来の事は不透明な事が多く、今の人々には把握し切れるものではありませんが、それでも最低限将来も維持して欲しい形態というのがあります(今の日本の場合、これは民主主義社会)。この民主主義直接民主制・間接民主制もあり、自由民主主義・社会民主主義のようなものもあるなどのバリエーションがあり、結局は、その時々の人々で選んでもらうという事になります。 この選択がその時々で行える為に必要な政治知識を「政治的教養」として教育するのが、現在の「政治教育」という事になります。

教育の「政治的中立性」が必要な理由に関しては、こういった歯止めをかけておかないと、「直接民主制万歳」「自由民主党万歳」「民主党万歳」みたいな教育が「国家の庇護の下に」行われてしまう危険性があり、(大人を転向させるより子供を引きずりこむ方が遥かに簡単で効果絶大なため)それが積み重なった結果として、民主主義が崩壊してしまう可能性があるため、そういった事態を防ぐ為(≒民主主義を将来にわたって維持する為に)です。

ちなみに、教育が誕生してよりずっと志向してきたのは、教育によって完成される人格(子供)が、外部の基準に依存して自らの頭でものを考えなくなるという事態を避ける事であり、党派教育を行ってはいけない理由は、これとも関わりをもっています。

追記

コメント欄とブコメにお答えして、追記します。

産経の取り上げた言動の全文は以下になります。

民主・輿石氏「教育の政治的中立などありえない」
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/872741/
民主党の輿石参院議員会長 明けましておめでとうございます。中村委員長の最後のあいさつの部分だけ聞きました。過激な発言も、とか。私が何を言ってもマスコミは取り上げてくれない。馳議員から組織率は何で20%前後だろう、こんな話もありました。まともな運動をしてないからじゃないかと思っている(会場笑い)。例えば全国で一斉家庭訪問、こんなものを提起して、親と子供の信頼と絆を取り戻すという運動をしたら、(マスコミも)これは必ず取り上げていくでしょう。

鳩山幹事長も政治は愛、教育もまた愛と、こう言われました。日教組は社会の中心の●(聞き取れず)に教育を。しかし、連合の古賀事務局長が言われたように、新自由主義の中で30年の歴史に終止符を打つためには、新しいステージに挑戦をしなければいけない。政権交代にも手を貸す。教育の政治的中立などと言われても、そんなものはありえない(会場やや笑い)。政治から教育を変えていく。逆説的に。そんな勇気と自信を持っていただきたい。私も日政連日本民主教育政治連盟)議員として、日教組とともに戦っていくことをお誓いをし、永遠に日教組の組合員であるという自負を持っております。そのことをお伝えし、日教組に期待をするごあいさつに代えさせていただきます。本日はおめでとうございます。》

教育学を学んでいる院生に聞いたら、戦後はいつもこうなので……今更の感もあるとの事でした。
補足しておくと、教育と政治は、宗教と政治の関係と同じく、そもそも完全に切り離せません。それを踏まえた上で、完全に切り離せないなりに中立を目指していく事と、中立を目指す事を放棄する事は超えられない壁があります。
(1)当事者の両方(全員)が政治的中立を模索する事と、一方だけ(一部だけ)が中立を目指す事の間にも大きな違いがあります。当事者の一方である日教組が「政治的中立などあり得ない」と言ってしまうのは危険な事です(もちろん、権力を握っていた自民党が恣意的に使って相手を攻撃した場合の問題点はそれよりも大きいものです)。
(2)教育の現場に政治的活動を持ち込まないのであれば、教員が徒党を組んで政治活動を行う事は充分に認められて良いのですが、それが極めて難しいのは55年体制下の文部省と日教組の対立・闘争や国旗・国歌反対闘争を見ての通りです。それを踏まえて、「完全に切り離せないなりに中立を目指していく事と、中立を目指す事を放棄する事は超えられない壁がある」という事が、再度確認されます。