教育問題に関して(中編・「ゆとり教育」について)

前回の続きです。更に長くなったので、前中後編と三分割になりました。

日教組を叩きたがる人たち - さだまさとの日記
http://d.hatena.ne.jp/sadamasato/20090913/1252865485
教育問題に関して(前編) - 雑記帳
http://d.hatena.ne.jp/seijigakuto/20090914/1252942858

はじめに

http://d.hatena.ne.jp/seijigakuto/20090914/1252942858#c109740096
上記のコメント欄に書きましたが、私の論旨は「ゆとり教育は学力格差を拡大して総合的な学習は機能しない」というものであって、その責任の一端は教師や日教組にもあるというものですので、「日教組が片棒を担いだゆとり教育や総合的な学習は失敗に終わった」という風なイデオロギー的な解釈方法はしていません(参考文献リストも晒しましたが、私が参考にしている実証研究をする学者は、イデオロギー的な解釈方法は余りしません)。
日教組に関しては、(1)37年前から「ゆとり教育」を主張して87年の臨教審以来15年の準備期間を与えられていながらいながら教員がそれに対応できていない事(2)にも関わらずに「ゆとり教育」をまだ推進しようとしている事(3)自分達の身分保障には熱心な割に、「ゆとり教育」を成功させる鍵である教員の資質向上には殆ど関心を示さない事、などの理由でもって批判しています。それをお断りした上で、前回(http://d.hatena.ne.jp/seijigakuto/20090914/1252942858)の続きとして、「ゆとり教育」について書きます。

「ゆとり・詰め込み」論争「多様性・画一」を巡る教育の議論の場合、 「多様な教育か/画一的な教育か」という善悪のはっきりした選択ではなく、「多様だが不平等な教育か/画一的だが平等な教育か」という難しい選択を含みます。 「画一的な教育」というのは言い換えれば、「万人に質が保障された教育システム」という事になり、1950年代〜60年代の文部省の教育政策は「機会均等」という側面を非常に重視していました。
ゆとり教育」に関しては、「教育の多様性」に関して左派の進歩主義的(戦後民主主義的)発想と新自由主義的発想が「合作」されている状況となっていて、そのうちの新自由主義的発想をするグループと経済界からの要望には「エリート教育」の拡充という方針(中高一貫校の設置や大学の飛び入学など)が含まれています(「資源の集中投資」の考えから、低学力層へのフォローは縮小)。

近代の理想は、「生まれた時点では、誰にでも何にでもなれるチャンスを与える」というもので、専門教育・職業教育に入るまでの普通教育の期間は「何になるのか選び取るまでは、その基礎となる知識や市民としての共通の知識を学ぶ期間」とされています。そのため、日本は同一タイプの中学校・高校に進む「単線型」の学校システムを採用しています。

ですが、できるだけ多くの人に職業選択の自由を保障しようとすれば、それだけ汎用性の高い教育(「訓練可能性」)を積まなければならず、それに伴って普通教育が長期化しますが、自分が将来就く職業に関係ない知識は、生徒によっては学ぶ意味が見えなくなります。そのため、そういった知識を学ぶ意味が薄い生徒に関しては、早期に自分が就く職業を決めて早めに専門教育・職業教育を受けさせる学校システムを採用している国もあり、ドイツの場合は10代前半という早期から社会階級に対応した職業教育を行う分岐(フォーク)型の学校システムを採用しています。

ドイツのように15歳くらいで将来の職業を決め、それに向けた職業訓練を行うようにすれば、「なぜ学校に行くのか迷う生徒」は減りますが、それは同時に職業選択の自由が保障される範囲が狭まる事を意味します。このように、 「学ぶ意味が分からない子供」が増える背景には、職業選択の自由と経済的な自立を通して、自由と平等を目指してきた近代社会のルールとのジレンマがあります。
ここまでが、学校教育のシステムの議論をする上での前提で、次は「ゆとり教育」という個別論に移ります。

ゆとり教育」の経緯について

「ゆとり」の概念が出てきたのは、1977年の学習指導要領改定で、この時は小学校の主要4教科の授業時間が3,971時間→3,659時間へと削減されました。
その後、 臨教審で87年に「ゆとり教育」の理念が出て、1989年の学習指導要領の改訂に伴い、「ゆとり教育」の強化や「新しい学力観」の導入などが行われ、小学校の主要4教科の授業時間が3,452時間へと削減されました。この時の改革では、業者テストを無くす偏差値追放、小学校で「総合的な学習」の時間の先導としての「生活科」の導入、学校週五日制を月1回トライアルとして導入、家庭科の男女必修、高校では単位制への転換なども行われました。それから10年を経て、1998年の学習指導要領の改訂(2002年度から実施)では、「ゆとり教育の完成」として、学習指導内容の三割削減、完全週五日制、「総合的な学習」が導入され、小学校の主要4教科の授業時間は2,941時間へ削減されました。

文部科学省寺脇研氏によれば、臨教審で87年に理念が出ましたが、性急にやったのではみんな納得しないので5年後の92年にその一部を実現、その10年後の2002年を期して答申にあった方向を実現できるようにしたため、合計で15年間の準備期間を設けて、教員の側にも対応できるように準備してもらったのが「ゆとり教育」だそうです。

ゆとり教育」の理念と目標

ゆとり教育」の理念は、「生きる力」の育成とされています。その「生きる力」とは何かについては、以下のように定義されています。

21世紀を展望した我が国の教育の在り方について 中央教育審議会
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701.htm
(3) 今後における教育の在り方の基本的な方向
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701e.htm
[生きる力]は、全人的な力であり、幅広く様々な観点から敷衍することができる。
まず、[生きる力]は、これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力である。それは、紙の上だけの知識でなく、生きていくための「知恵」とも言うべきものであり、我々の文化や社会についての知識を基礎にしつつ、社会生活において実際に生かされるものでなければならない。
[生きる力]は、単に過去の知識を記憶しているということではなく、初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力である。これからの情報化の進展に伴ってますます必要になる、あふれる情報の中から、自分に本当に必要な情報を選択し、主体的に自らの考えを築き上げていく力などは、この[生きる力]の重要な要素である。
また、[生きる力]は、理性的な判断力や合理的な精神だけでなく、美しいものや自然に感動する心といった柔らかな感性を含むものである。さらに、よい行いに感銘し、間違った行いを憎むといった正義感や公正さを重んじる心、生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観や、他人を思いやる心や優しさ、相手の立場になって考えたり、共感することのできる温かい心、ボランティアなど社会貢献の精神も、[生きる力]を形作る大切な柱である。
そして、健康や体力は、こうした資質や能力などを支える基盤として不可欠である。
このような[生きる力]を育てていくことが、これからの教育の在り方の基本的な方向とならなければならない。[生きる力]をはぐくむということは、社会の変化に適切に対応することが求められるとともに、自己実現のための学習ニーズが増大していく、いわゆる生涯学習社会において、特に重要な課題であるということができよう。
また、教育は、子供たちの「自分さがしの旅」を扶ける営みとも言える。教育において一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることの重要性はこれまでも強調されてきたことであるが、今後、[生きる力]をはぐくんでいくためにも、こうした個性尊重の考え方は、一層推し進めていかなければならない。そして、その子ならではの個性的な資質を見いだし、創造性等を積極的に伸ばしていく必要がある。こうした個性尊重の考え方に内在する自立心、自己抑制力、自己責任や自助の精神、さらには、他者との共生、異質なものへの寛容、社会との調和といった理念は、一層重視されなければならない。

上記が「ゆとり教育」の理念ですが、寺脇氏や進歩系・組合系の人が「学力」に関して目標とする論点は以下のようになります。(1)教育内容の削減は「全員が百点を目指す」(教育内容「三割削減」) (2)「自分で学びたい」という学習意欲を高める事を目指す(3)学習指導要領の成果は教師たちのやり方如何による(詳しくは、http://www7.atwiki.jp/epolitics/pages/358.htmlを参照)
ゆとり教育」に関しては、「学力低下」というよく言われる事だけでなく、(1)(2)の目標とする論点についても逆の結果が出ています。
もちろん、「ゆとり教育」の失敗に関しては、一番の責任は文部科学省にありますが、その事と、37年前から「ゆとり教育」を主張して87年の臨教審以来15年の準備期間を与えられていながらいながら教員がそれに対応できていない事を免責する事は別の問題です。

ゆとり教育」と「総合的な学習」について

ゆとり教育」の目玉である「総合的な学習」が失敗した原因の一つに、知識(情報)と思考を完全に切り離して、思考だけを訓練する事が可能だと捉えてしまった事が挙げられます。この背景としては、「知識の伝達」→「総合的な学習」という価値観の転換を含む学習方針の転換のためのテストとして、1997年頃から各地の国立大学の附属校で「総合的な学習」が上手く機能するかをテストし、それが一定の成果をあげたため、文部科学省からGOサインが出たという事が指摘できます。

「総合的な学習」の内容は、参考リンクにある愛知県の名古屋大学教育学部附属高校の「総合人間科」のような問題解決型の授業ですが、国立大学の附属高校の場合、厳しい入学試験を経ているため、子供達が別途学習に必要な知識を身につけていたという事、名古屋大学教育学部附属高校のように、敷地内に併設する国立大学が存在し、名古屋大学の講義を授業として受ける事も可能な場合もあるなど、一般の公立中学・高校にはない特殊性といった事が成功の要因として指摘されています(「成功」と評価されている名古屋大学教育学部付属校の「総合人間科」にしても、面倒なことは嫌がるの生徒からの評判は良くなく、ディベートなどで積極的な発言をしてそれなりのレポートを書いてくる少数の生徒と、やる気が薄く間に合わせのレポートを提出するだけの多数の生徒で固定されていたという事も指摘されています)。

この「総合的な学習」が今後も機能しないであろう事は、教員の側の資質向上に余り期待が持てない事、成功した事例は「クリーム・スキミング」でしかない事から想像できると思います(「クリーム・スキミング(cream skimming)」というのは、やりやすい事例だけ(牛乳の中から一番おいしいクリームの部分だけ)をすくいあげるという事です)。
私立・国立大学の附属校では、理念に共鳴した保護者や優秀な生徒が多く集まるため、そういう所で行った実践は、子供に柔軟性があったり親が熱心で協力的な事も多く、上手く行く事が多いです。ですが、「牛乳の底」とされる、親は子供の教育に無関心で、学校に対して無関心か反抗的な生徒が多く集まる学校で同じような教育を行っても、その教育実践は上手くはいかないため、一部で成功した教育改革を全国の普通の学校に広げる事は難しいとされています。

参考)
http://camellia.fukuyama.hiroshima-u.ac.jp/sogo/zisenkosatu/310Nagoya.htm

日教組と「ゆとり教育」の関係

ゆとり教育自体は、進歩主義日教組等の左派)と新自由主義の合作ですが、元々、「ゆとり教育」の提唱は日教組から為されました(明確に確認できるのは1972年で、週5日制や受験競争の緩和、総合的な学習等)。但し、1995年までは日教組の支持している社会党は政権にはおらず、文部省とも対立していましたので、実際の教育改革に際しては日教組の関与は直接的には無かったと言って良いと思います。

その一方、2002年の「ゆとりカリキュラム」の基礎となった、中教審の2つの答申が出された時期は、支持する社民党が自社さ連立政権で政権に参加していたため、日教組も「政権側」として参加していたと言えます。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701.htm
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/970606.htm
また、1995年の文部省と日教組の和解の後、中教審日教組の関係者(横山英一氏が2002年まで参加)が委員として入るようになるなど、文部省や自民党に比較すれば少ないとはいえ、教育行政に対して影響力を発揮しました。

今現在の日教組の「ゆとり教育」に対するスタンスは明確ではありませんが、2007年7月1日、TBS「JNN報道特集」で「ゆとり教育を推進すべき」という発言をしていた事、日教組の公式サイト内の政策提言集を見る限り、今でも「ゆとり教育」推進派だと思われます。

2. カリキュラム改革、教員養成、ゆたかな学びの保障に関する政策 日本教職員組合ホームページ
http://www.jtu-net.or.jp/proposal_05.html
悉皆による全国学力・学習状況調査の実施により、一部特定の教科の点数が「学力」と捉えられ、点数をあげるための事前対策や序列化・競争を煽る結果、公表の動き等が表面化してきている。子どもの学びを歪める全国学力調査に莫大な予算を費やさず、子ども一人ひとりの学びを保障するための教育条件整備を優先すべきである。さらに、08年3月、小・中学校学習指導要領及び幼稚園教育要領が改訂された。「ゆとり教育」への批判をうけた「学力」の向上が大きなねらいとなっており、「点数学力」「受験学力」を重視した教育への転換が懸念される。09年度から移行措置が実施されるが、小学校週当たり1時間の総授業時数の増加、規範意識を重視した道徳教育、英語に特化した外国語活動など課題が多い。また、「総合的な学習の時間」が縮減され、各学校におけるカリキュラムづくりは喫緊の課題である。子どもの学ぶ意欲や過程、学び合い等を大切にし、子ども・地域の実態に応じた「ゆたかな学び」を重視したカリキュラムづくりが求められる。

2. 学習指導要領については、点数学力の向上や徳育を重視したものではなく、憲法子どもの権利条約の理念をふまえたうえで、一層の大綱化・弾力化をすすめること。
3. 子どもたちが自ら気づき、課題を設定し、学びあう「総合学習」の役割は大きく、充実するための条件整備を行うこと。
上記のような感じで、今は縮小中の「総合的な学習」に関しては再び拡充の方向に動くものと思われ、受験制度も基本的には消していく方向を志向しているようです。
しないので5年後の92年にその一部を実現、その10年後の2002年を期して答申にあった方向を実現できるようにしたため、合計で15年間の準備期間を設けて、教員の側にも対応できるように準備してもらったのが「ゆとり教育」だそうです。

補足:「ゆとり教育」と新自由主義の関係

ゆとり教育」に関しては、新自由主義的発想をするグループも「エリート教育」の拡充という方針(中高一貫校の設置や大学の飛び入学など)で推進していましたが、最初の項目で述べた「多様だが不平等な教育か/画一的だが平等な教育か」という難しい選択に関して、1950年代〜60年代の文部省の教育政策である「万人に質が保障された教育システム」による「機会均等」という側面は切り捨てられたという事も言えます。

当時の教育課程審議会会長だった三浦朱門氏は、「エリート教育」としての側面に関して以下のように語っています。

ゆとり教育はエリート教育』
http://f18.aaa.livedoor.jp/~satoman/karasu_0503a.htm
学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。 いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。 つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力をできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でもいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。
トップになる人間が幸福とは限りませんよ。私が子供の頃、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいました。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしていたのを覚えています。 息子を大学になんかやるもんじゃない、お陰で生活が離れてしまった。行商も辞めさせられて、全然楽しくない、魚屋をやらせておけばよかったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の熊さん八っつぁんも、貧しいけれど腕には自身を持って生きていたわけでしょう。
今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら〝どうせ俺なんか″で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。
平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが"ゆとり教育"の本当の目的。 エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。

親の職業・学歴と子供の学力の間には相関関係が強く、階層間の学力格差が拡大しているというのは、教育社会学苅谷剛彦氏などが指摘しています(後編で色々引用したり紹介しようと思います)。